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当山本堂内、向かって右側の地蔵菩薩像は言い伝えによりますと、恵心僧都によって作られ、代々皇室に伝わり供養されていたものを陽成天皇の代に関白豊臣秀吉公を召して御手ずからこの尊像を御下賜となり、広く庶民に功徳を蒙らしめよとの勅があったと伝えられております。
その後、故あって豊臣秀吉公より徳川家康公に譲られ、 家康公はその居間に安置し奉り朝夕にご供養されたところ、 不思議にも度々霊感があったため秘仏とされ、二代将軍秀忠公の代に牛島の離れ御殿を改め寺として清薫尼を召し住寺とされ、 如法山清薫寺の称号を賜ったことが、当山の開創の大要であります。
五代将軍徳川綱吉公の生母桂昌院様は殊に信仰厚く将軍の病悩平癒を祈願されたところ、たちまちに平癒したため、御灯明料として御朱印地をたまわり、毎月四日・十四日・二十四日に尊像を御開帳大供養が行われるようになりました。 ここに桂昌院様の御父感応院様の二字をたまわり、寺号を感応寺とあらため、人々には将軍地蔵尊と呼ばれるようになりました。
また、福徳延命の功徳のみならず、妊婦、産婦、子育てにも多くの御利益があったため安産子育地蔵尊とも呼ばれるようになり、以来三百有余年間当山に安置されることとなりました。
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将軍地蔵尊像 毎月24日にご開帳します。 |
時はくだり、大正十二年九月一日の起きた関東大震災では、当時感応寺のあった本所一帯は火の海となり感応寺も全焼しましたが、第一七代住職平松誡厚尼(当時三十二歳)は随侍の尼僧たちをはげまし、称名を唱えつつ、急ぎ地蔵尊像を背に負い目的地もないまま、周りの人々の進むままに被服廠跡へと向かいつつありました。
その途中誰とも無く背後より袖を引き「被服廠跡へは行くな、吾妻橋へ行け」という声が聞こえましたが、無我夢中で猶も歩き続けると、誡厚尼の足部がしびれて動かなくなり屈んだときに「早く吾妻橋へ来よ」と聞こえ吾妻橋へと向かい始めると不思議に足の痛みも無く、今度は誰かの背に乗っているかのように足取りも軽く吾妻橋を振り返ると吾妻橋にも火が移り始めたところでした。
この大震災では感応寺も全焼し代々将軍御願の白檀の観世音菩薩をはじめ多くの仏像仏画、曼荼羅、経巻、什物などが焼失したことは惜しんでも余りあることではありますが、地蔵尊体が無事であったことは幸いでありました。 その後、東京府下荏原郡駒澤町上馬引澤に感応寺を再興するとともに、霊徳顕著なる地蔵菩薩像を安置し、現在の感応寺となりました。 |
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