ごあいさつ

感応寺は、約400年程の歴史の寺です。

江戸本所に開創され、関東大震災による移転を経て現在にに至るまで「将軍地蔵様」「お地蔵様」と呼ばれ親しまれてきました。寺に求められることを、できる限りお勤めさせていただくことを基本理念として、葬儀、ご法要、永代供養、水子供養、お墓、厄除け・各種祈願、ペット葬儀・供養・納骨、写経会等を行っております。その他ご相談などお気軽にご連絡ください。

感応寺の歴史

秘仏延命将軍地蔵尊

このお地蔵様は恵心僧都源信の作で代々皇室に伝わり、後陽成天皇から豊臣秀吉公に下賜され「広く庶民に功徳を蒙らしめよ」との勅があったと伝えられております。
その後、徳川家康公に譲られ、江戸城で祀られたところ、たびたび霊験があったため家康公によって秘仏とされた事から「将軍地蔵尊」と呼ばれるようになりました。

清薫寺から感応寺へ

徳川三代将軍家光公がお亡くなりになった慶安4(1651)年、牛島の離れ御殿を改め寺として清薫尼を住職とされ「如法山清薫寺」の号を賜った事が当寺の開創です。
その後、五代将軍綱吉公の生母桂昌院様が将軍の病悩平癒を当寺で祈願されたところ、たちまち平癒したため、お燈明料として御朱印地を賜り、この御縁で寺号を、桂昌院様のお父様である感応院様の2字を頂き「感応寺」と改めました。

関東大震災での霊験、そして上馬の地へ

大正12年、当寺は関東大震災による火災に見まわれ、当時の住職第17世平松誡厚法尼はお弟子方と共に、本尊阿弥陀如来、将軍地蔵尊象他の尊像を背負い、近隣の非難する人々と共に被服廠跡へと向かいました。
その途中、背後より「被服廠跡へは行くな、吾妻橋へ行け」との声が聞こえましたが、無我夢中で気に留める事もなく歩き続けると、足がしびれついに屈んだ時ふたたび「早く吾妻橋へ来よ」と聞こえ、吾妻橋へ向かい始めると足のしびれもなく、誰かの背に乗っているかのように軽やかに歩くことができ、吾妻橋を越え振り返ると、吾妻橋にも火が移り始めるところであったとのことです。
その後、誡厚法尼は、上馬引澤(現在の世田谷区上馬)に堂宇を建立し現在の通り再興されました。